「多様性」はなぜ大切なのか?

ずっとモヤモヤしていたんですが、なんとなく自分なりの答えが見えてきたので書きます。

前提として「多様性が大事!」という論調はそもそも2つの論点が混ざっている気がします。

1つは反差別的な文脈。もう1つは生産性の文脈。

前者については女性の働きやすさ、セクシャリティや国籍、エスニシティなどのあらゆるマイノリティの方達に対して寛容な世界を目指しましょう!という話。後者は、学習の場から仕事の場に到るまで、凝り固まった同質的な人間が集まるとつまらない意見しか出なくて非生産的だぞ!という話ですね。僕の中で前者には完全同意ですし、そもそも自分が差別されたい人なんていないわけで、他の人たちも同様に差別のない社会を作ろうとする、ここに異論はないのです。

つまり、僕がモヤモヤしていたのは「多様性のある環境にしとくと(なんとなく)良い意見でるよ」という意見に対してです。

 

この後者の多様性についても勿論同意はするわけですが、如何せん肌感覚としての意見であって肝心の何故かというと、という明確な言語化はできていなかったわけであります。

冒頭に少し書きましたが、<異なるバックグラウンドの人が混ざる>→<これまでにはない素晴らしい意見がでる>→<目からウロコが落ちる→物事が改善する>、という論理って雑すぎると思いませんか?要するに「俺たちだけじゃ良い意見が出ないから、誰か助けを呼ぼう!」という話と大差ありません。ただ、新たに招聘する人たちが仮に外国人や女性リーダーだから優れたアイディアを出せるかと言ったら、(ちょっとは出るかもしれないけど)別に優秀な日本の旧来エリートだってそこで大きく負けないと思うわけです。では、なぜ多様性?というのが最近の僕の考え事でした。

 

まず1つだけ言えることは、多様な意見が出てくる環境にしたから明日から良いビジネスアイディアやクラスディスカッションが進むぞ!とい超短期的な考え方を捨てる必要があるということです。むしろ少し長めの視座にたって、優れた多様性の環境に身を置いておくと、次第に集まっているメンバーが変化、もしくは進化していくよ、というのが僕の仮説です。良い意見を他人に期待するのではなくて、良い意見を言える自分に変わろう!という話です。当然、何もないところにこうした変化は起きないわけで何らかの原動力が必要です。この起点こそが「多様性」であり、端的に言い換えれば「理解不能な人と出会う」こと、なんだと思います。人は未知のものと出会った時には(完全に諦めている一部の人以外は)、その未知なる対象のことを理解しようとします。そして分かった!となるためには、必ず自分の持っている知識や経験を下敷きにして、「つまり、あれと同じで、こういうことだな!」と腹に落ちていくわけですね。既に知っている知識と重なるところがあれば、知らないようでいて既に陸続きの地面のようなものですから理解に難いこともありません。ただし、どんな既存の知識を取り出してみても、何となくしっくりこないな、というものもあります。こういう類の未知の物事を考えるためには、自分なりの「解釈」の橋をかけていく必要があります。自分が立っている浜辺から、目の前の少し離れた島に橋をかけていくような姿をイメージしてみましょう。小島の姿ははっきりと見えていて、どういう形か大まかに理解はできるんだけれど、その島の裏側や影などは見えていませんから、どこか腑に落ちないような感覚が残ると思います。そこで理解に到るまでの知識の抜け漏れは、自分の想像や直感で埋めていく作業が必要になります。もしかしたら、また別の本を読んでいたら半分で諦めていた橋が綺麗に架かるかもしれません。ただ、一度到達してしまいさえすれば、その島とは自由に行き来ができますし自分の行動範囲が広がった分、さらに先の小島が見えることもあるでしょう。

 

長くなりましたが、多様性に自らの身を置くというのはこういう風に「自らを考えさせる」環境に身を置くことに他なりません。他の人に良い意見をもらうために多様性を高めるのではなく、自分自身がよく考えて、より良い意見の一つも言えるようになろうというのが本来あるべき多様性の姿だと考えてます。ですからある意味では多様性が増すと短期的には苦しい思いをするのは自分たちなのです。筋トレと一緒で力がついてくるまでの辛抱ですが、ここがなかなか辛いのです。そんな中で、外国籍の人材や女性役員の登用など最近では目標数値も決められています。数値目標自体は良いことかもしれませんが、義務だから、目標だからと実施するのではなく、受け入れる側が変わる、成長の機会を作り出す、と捉えることこそが重要だと思います。そうするだけで後から加わる人も伸び伸びと活動ができると思います。間違っても後から来た人が、元からいた人間に合わせよう、などという発想になってはいけないのは、ここまで考えてきた多様性の本分から照らしても明らかですね。ライフネット生命創業者で立命館アジア太平洋大学学長である出口治明氏は常々「残業しないで勉強しなさい」「多様性は人・旅・本」と仰っています。色々な種類の人と会い、旅をして、本を読み、そこから出会う未知なるものに自分なりの解釈と理解を繰り返していくことが大切だと、考えてみればたくさんの人たちが発信していますね。

 

「多様性」とは「自ら考えることで自己成長を促す機会」である、これが今のところの僕の解釈です。

「本質的に」ってなんぞや?

何故か分からないけど、子供の頃から時々発作のように、意味の分からない言葉をそのままにしておくと、何ともお腹のあたりがムズがゆいような、居ても立っても居られないような気持ちになることがあった。

別に意味が分からなくたって気にも止めない言葉だってもちろんあったし、世のあまねく言葉を調べ尽くしていた訳でも当然ない。

この発作が起こるときは決まって「何かカッコイイ」言葉を使っている誰かを見たあとに、ついついマネして使ってしまっている自分に気が付いたときなのだ!

恥ずかしい。意味もわからず格好つける不甲斐なさ。何とも自分を許せないような、居心地の悪い感覚に襲われる。

そこで今日の本題。「本質的に〜」という言葉だ。よくよく議論の場などで使われていると思うのだけれど、いざこれを目の前で言われてしまうと大変だ。自分の浅はかな考えを見抜かれた、気恥ずかしくも情けない気持ちにさせられる、そんな破壊力のある言葉だと思う。

また、いつもの発作が起こる。ムズムズする。

本質的に、ってついつい言ってしまいそうだけど、結局どういう意味なんだろう。「お前は本質的なことが分かっていない!!」と言われてしまう場面を想像してみても、何が分かると本質的なことを理解できているということになるのかサッパリわからない。だから、この言葉を安易に口にするのは危険すぎる。相手から逆質問カウンターを繰り出されたら、俺は確実に悶絶してしまうだろう。

何はともあれ、とりあえずググるが勝ちである。

本質的:「物事の根本的な性質にかかわるさま。それなしには考えられないほど大事なさま」本質的(ホンシツテキ)とは - コトバンク

アイスクリームの本質は、冷たくて美味しい、ということである。熱ければ、溶けてしまうから。それはアイスクリームではなく、牛乳か或いはジュースであるから。

本当にそういうことなのだろうか。

この本質を引っさげて、「最近冬にもアイスが売れてるんだけど、なんでかな?」というコンビニ店長の疑問を自分に課してみるとどうなるのか。

「店長、アイスクリームの本質は、冷たくて美味しい、ということにあるのです。冬に冷たいものを楽しむ場面を想像してみましょう!」

店長「!!昔と違って最近は暖房器具もしっかり流通しているから、冬でもアイスの売れ行きは今後落ち込まないと考えられるな!」と。こんな感じだろうか。

 

次にコンビニのおでんが人気であることの本質を考えてみる。それは、手の込んだ熱々の美味しい料理を即座に入手できることにある、気がしている。

会社帰りの寒い冬に、おでんを食べたくなったとする。夜8時、、今から作っていたら大根が柔らかくなる頃には10時を過ぎてしまう。諦めようか。。ここにコンビニのおでんである。うん!これは買いたい!ここで冷たいおにぎりでは味気ない。

ということは、コンビニのおでんは例えば具沢山の豚汁にも置き換えられる気がするのだがどうだろうか。具の多い豚汁は、食材を揃えるのも、切るのも、後片付けも何もかもが面倒だ。

あ、そういえばコンビニエンスストアーの本質は「便利」というところにありそうだ。

「本質」ということを追っていくとそのものの価値について考えていることに気が付いた。では、逆に価値がマイナスのもの、例えばトラブルの本質について考えてみたい。どういう結果になるのだろうか。

では具体的に、小学生のいじめについてはどうだろうか?「小学生のいじめ」を特徴づけているものは何か?何が欠けるとそれはもはや小学生のいじめと言えなくなるのだろうか。

少し考えてしまったけれど、もしかするとそれは「逃げづらい」という部分なのかもと思い至ったがどうだろう?小学生のいじめは逃げるのがとても大変な気がする。なぜなら小学生にとっての全世界は、その小さな小さな学校に限定されているわけでだから。中学生になると部活なんかで他の街の中学生とも交流があったりして、いざイジメられたら隣町の友達がいる学校に転校なんて選択肢だって本人の頭の中に浮上するかもしれない。

しかし自分を思い返してみても、小学校は、市街地から離れたそれはそれは辺鄙なところに建っていたし、子供達だけで遠くに出かけるわけもなかったから、あそこで仮にいじめられていたら、それはそれは辛かっただろうなと想像できる。それに対して今はインターネットを介した交流や、いじめケアなどが提供されていることは一定の効果があるだろうと思われる。世界を広げてあげるのにオンラインは有効だ。

こんな風に考えてみた小学生のいじめの本質が合っているかは一旦横に置いてまとめると、トラブルの本質をガチッと捉えてられると、その問題の一番悩ましい部分を理解することができる、ということが仮説として立ち上がった。

つまり、プラスの物事の本質は、そのものの価値、マイナスの物事の本質は、そのものの闇というわけだ。

具体的な物事を決めたら、この部分は他のものにも当てはまるな、とフィルターをかけていくと、そのもの固有の特徴が絞り出されていく。

だから、本質的というのは、無駄なものを取り除いた、濃度高く、香り高い、コーヒーのエスプレッソのような状態のことを指すのだろう。価値があるものは、飛び切り良く見えるだろうし、逆に負の物事の本質は非常におどろおどろしく感じられるだろう。

この要領で、自分が考えがそのような質のものになっているかを確認することで本質的に思考できているかはセルフチェックができそうな気がしている。そうだ、それがこの文章のそもそもの目的だった。コンビニのおでんは所詮おまけなのだ。

 

ただ逆に、抽象的なイメージをどんどん具体化していくのも面白いと気が付いた。ざっくりと「とっても便利なお店」を考えてみると色々あげられると思うのだけれど、これをどんどん具体化していくと、最近はコンビニ以外にもドラッグストアもとっても便利だよなあ。ちょっとしたお菓子から日用品までなんでも買える。ポイントもしっかりつく。夜中まで営業しているし。あとはもちろんアマゾンもすごく便利なお店だろう。あの秒速で買い物が完了する感覚は、一度経験すると病みつきになる。

そうこう考えてみると、最近はコンビニエンスストアの競合として、これらの業態が台頭してきている、ということも整理できるというわけだ。物事の本質はそのものの価値であることは確認済みだから、つまり近しい本質的な価値を持っているお互いは、お客さんにとっては選択肢として横並びになるだろう。

これで「お前は本質的なことが分かっていない!!」と怒鳴られても、もう底なしの恐怖感はない。正体さえ分かってしまえばあとは訓練を詰むだけだ。

今ならドヤ顔で「本質的には〜」とか言っている人たちを気持ちよくスルーすることもできるかもしれない。

物事の本質を理解するのはどうやら骨の折れる作業だけれど、慣れればパッパッパと答えに到達することだってできるはずだ。

どうやってトレーニングしたらいいか分からないけど、世の中の売れている本は大体そういうの本質をついているものばかりな気がするから、手始めにそこらへんから攻めてみようか。そして本当に意味のある言葉として「本質的には〜」という言葉を発してやるのだ。

エイエイオー!!

会社の嫌な飲み会は近々廃止されると思う理由と、その後の働き方

ども。

 

あえて楽観論を振りかざします。

働き方改革は着実に実現する方向に向かう筈です。

僕たちは、何も「特別」な施策を導入したりする必要はありません。

 

当然、「痛み」を伴う過程はいくつもあるかと思いますが、より少ない労働時間で、より高い生産性を目指していく流れはどんどん加速してくきます。

先輩社員達との飲み会を嫌がる学生たちもご安心下さい。多様な価値観が認められて、必ず強制感のある社内イベントは淘汰されていくことでしょう。

 

今、日本の企業は、強烈な人手不足と、外国人の雇用拡大を同時に解決しなければならない状況にあります。

高いスキルを持った外国に限らず、一般的な外国人労働者にすら見限られてしまうかもしれない今、国内外の多様な人材を社内につなぎ止められるように急速に変化する必要がありますから、まさに一刻の猶予もない、というのが日本の置かれた実情です。

ただ、この課題に対しても僕は非常に楽観的なのです。

 

▼▼

 

日本でも最近になってようやく、外国人の雇用が進んでいます。が、これは周回遅れの話です。すでに高賃金目当てで外国人の人たちがこぞって日本を目指すような時代ではありませんし、技術の面でも今では中国のハイテク企業が日本にどんどん進出してくるのが当たり前の流れになっていますよね。外国人が日本で働くことの直接的なメリットはかなり薄れてきています。

日本で働く外国人 - 一般財団法人自治体国際化協会 多文化共生ポータルサイト

 

とすると、世界中どこでも働くことができるような高いスキルを持った外国人が日本籍企業に勤めているとしたら、それはたまたま日本という国に興味なりルーツなりをもち働いてると考えるのが妥当でしょうから、何かの理由で嫌になってしまえば彼らはいつでも出て行ってしまうでしょう。

ちなみに、ここで日本を見限る可能性のある労働者は必ずしも知的労働者に限りません。

誰だって、別に給料も高くない(言葉も日本語しか話せない)日本よりも、これから成長著しい他のアジアの国々に出稼ぎに行きたい、と考えるのは自然ですよね。

 

つまり、日本の労働市場は大局的に見れば圧倒的に「売り手市場」なのです。

日本の高齢化した人口構造に、世界の労働市場としても魅力を失った労働市場が追い討ちをかけている格好です。

ですから雇用する側の企業は、これから労働者の満足度をどんどん取りに行く必要があります。仮に賃金を上げられないなら、「働きやすい環境」を提供するしかありません。力強い、夢のあるビジョンを打ち出すことも必要でしょう。

 

▼▼

 

売り手市場になると、労働者は好みや状況に合わせてどんどん仕事を変えていきます。次にまた別の会社に雇ってもらえる可能性が高いからです。人がどんどん辞めるので、会社はどんどん雇う必要が出ます。非正規雇用、などと言っていては人材を確保できないのであれば、会社はそのような雇用体系も改める必要が出てくるでしょう。

 

また多様な考え方が共存する職場では、日本の伝統的な労働倫理に縛られることなく、ガンガン定時で退職する人たちが増えるでしょう。外国人の同僚が平然と帰っていけば、そこに今時の若手社員はついて行くことでしょう。嫌な飲み会なんかを強制した日にはすぐにもっと働きやすい職場を探し始められる市場環境も出揃っています。

 

ただ、当然ですが社員が「収益の面」で甘えたことばかり言っているとその会社は潰れます。

つまり、きちんと稼げれば、社内の面倒な縛りは可能な限り排除する、というシンプルなゴールを「一応口だけは言っとこ」というレベルではなく今、目指す必要があるということです。

 

 

日本は殊この課題に対しては先進国の中でも大きく出遅れているのです。

労働生産性、日本はG7の中では最低→上位ドイツは上司がポケットマネーで罰金を払う仕組みになっていた

 

ただ、成長の伸び代はもっとも大きいわけですから、実際に他の国で成功している事例や実績ある手法を企業単位でもどんどんパクればいいのです。

海外からであろうと、どこからであろうと高い生産性と多様性を両立する仕組みをどんどん採用していく流れが必ずくる筈ですし、それを自然に実行できる外国人社員がこれからも増やしていくのは政府も目指すところです。

日本は現時点では、何も特別なノベーションを起こす必要はないのです。

どんどんベストプラクティスをパクって、また高度経済成長期のように先進国の企業に食い下がっていけばいいのです。というかそもそも国籍の意識すら不要かもしれませんけどね。

全員が正しい課題を理解して、日本の「勝ち組メンタリティー」を過去のものにできれば、大小色々な改善がガンガン動き出すんじゃないかな?

 

チャーお!

オリンピックがお金を稼いで何が悪いのだ?(いや、悪くない)

ども。

 

オリンピックが商業化していることを悪し風潮だと断じる論調がありますが、たびぞーは以前にも増して注目を浴びているオリンピックがどんどんその価値を高めているように感じています。

そもそもオリンピックとお金が絡むことにどのような問題があるのでしょうか。

 

「カネとの関係を安易に見せてしまう」ことが「スポーツへの夢」を「しぼませて」しまうという問題です。 

www.newsweekjapan.jp

 

 CMへの出演が選手のカリスマ性を毀損させ、ひいてはその競技自体の「夢」をしぼませる、という論考ですが、それとオリンピックが商業化することの因果関係というよりは、オリンピックで活躍した選手のその後の商品性が中心の話です。

そのこととオリンピック自体の商業化は直接的に関係していません。

結局は、人間の身体の限界に挑戦する「純粋」で「尊い」スポーツと、「邪な」お金儲けが密接に関わることへの反射的な嫌悪感が否定派の体勢でしょう。

 

▼▼

 

それでは、大きくお金を儲けられる、とは一体どのような状況なのでしょうか。

これを考える上で最も良い例は米メジャーリーガーの給料です。2018年のメジャー最高年収はドジャースの投手、クレイトンカーショー選手の39.7億円と言われています。まさにアメリカンドリームを地でいく給料は世界最高のピッチャーには誰もが納得というところでしょうか。

かたや、体操で世界最高の選手である内村航平選手の年収は約2,000万円程度?と言われています。もちろん広告収入等はあるかと思いますが、純粋にスポーツ選手としての対価は他の多くのメジャーリーガーたちと比べても大きく劣ると言えるでしょう。

陸上10種競技元日本チャンピオンの百獣の王武井壮さんは、「自分の子供にはクリケットをやらせたい。」と言っています。至極納得の行く話で、インドではクリケットは巨大なファンを抱える一大スポーツだからです。当然選手の年俸は億を軽く超えてきます。

武井壮の「大人の育て方」がマジ凄い!オトナの学校 【フルテキスト版】 | 関西外大アラモード同窓会NEWS

 

このようにトップアスリートの年収の違いを生み出している根本的な原因は、その競技の人気の違い。

言い換えれば、「何人の人を感動させることができるか」に尽きるのです。

メジャーリーグは全米で日夜テレビ放送が行われて、一人の選手のビッグプレーに大量の視聴者が歓喜します。この大きな熱狂はグッズ販売やケーブルテレビ、スポーツブランドからの契約料など多額のお金を呼び込みます。一方でテレビ放送のないマイナースポーツはいかに世界屈指のビッグプレーが飛び出そうとも極端な話をすれば特に誰も興味がないのです。

武井壮さんの言葉を借りれば、「選手のクオリティ(競技レベル)」と「ニーズ」は必ずしも一致せず、ニーズがなければ「無価値」なのです。

 

▼▼

 

オリンピックに話を戻しましょう。オリンピックは普段スポーツに関心のない人たちもテレビに釘付けになる大イベントです。

特に、ルールも知らないような競技でもついつい応援してしまうということが起こるのもオリンピックの特徴です。女子カーリングが有名になったり、フェンシングの太田雄貴選手のメダル獲得に歓喜したかたも多くいたことでしょう。

その中に、普段からカーリングの会場で応援をしたり、フェンシングの動画を見あさっている人たちはどれほどいるのでしょうか。

そんな超一流のトップアスリートとはいえ、通常の大会では誰からも見向きもされずに頂点を目指すアスリートたちは、オリンピックという「祭り」の中に組み込まれることで初めて世界中にテレビ放映されて大きく「価値」を高めることができるのです。

 

そこで大活躍をしたり、「初めて」広く見られることで競技の面白さが伝われば、カーリングやフェンシング、バドミントンのニュースが平日の夕方にスポーツコーナーで取り上げられるようにもなるのです。

 

お金を稼ぐことが邪だ、という主張は利益を追求しすぎて不正を働くような場面と絡められて強化される論調ですが、本来お金は「物事の価値」や「人々を感動される」度合いの尺度としてあるのが本質です。

だから、世界中のトップアスリートたちがたくさんの人たちを感動させられる大舞台は大金が動く大会になるのも必然です。

そこのところをはき違えると、空っぽの会場で黙々と選手だけが競い合う、誰の興味も湧かせられない世界大会になってしまうのです。

 

そんなスポーツって夢があるのでしょうか?

 

チャーお!

他人の当たり前を押しつけられたら、「これはシメた!」と考えよう。

ども。

 

「自分の当たり前を、他人に押し付けてはいけない」とよく言います。

 自分と他人は「違う」人間だからです。

一方で、「自分がされて嫌なことは、相手にもしてはいけません」とも言います。

 自分も他人も「同じ」人間だからです。

 

ざっくりとこんなイメージです。↓他人同士似ているところもあれば、違うところもある、というどちらも正しい2本の言葉が同時に存在している状態です。

f:id:Tabizo:20180215225326p:plain

たびぞーは心理学者ではないので、あくまで各領域が重なる割合についてはよく分かりません。

ただ、少なくともこの図から自分の嫌いなことだけはなく、自分の好きなこと(=嬉しいこと)でも、相手をいやがらせてしまうかもしれないってことがよく分かります。

たびぞーは英語が大好きだから、絶対格安のオンライン英会話は良い!と友人にオススメしても、その友人は「なんでお金を払ってまで人と話さなきゃいけないんだ!」と感じる読書好きかもしれません。

 

ですが、これはあくまで自分が相手に対してどうするかの話。大抵の人は普段から気をつけていると思います。

ほんとにこの図で大事なことは、相手が当たり前を押しつけてきたときの話ですよ。

 

■■

 

つまり、自分の「当たり前」の外にも、「喜び」は必ず在るってことです。

 

日本の会社には、内定式というのがあります。大体そんなところのお偉い人の話なんてのは早々に忘れ去ってしまうものですが、たびぞーはそこで強烈に他人の当たり前を押しつけられたことを今でもよく覚えています。

神妙な顔つきで登壇されたその人事部長は言いました。

「皆さん。本を呼んでください。」

恐らく日本のトップかその次の大学を卒業しているそんな人でも、割と普通なことを言うもんだな、程度の感想でしたが、

何を隠そう、たびぞーは本といえばハリーポッター他読みやすい小説だけを人生で30冊読んだかどうかというぐらいの非常に薄い読書歴しかありませんでした。(実家はむしろ漫画喫茶状態)

ただ、奇跡のトーク力だけで勝ち取ったその会社の同期には、無数の秀才たちが勢揃い、藁をも掴む思いでそのエリート部長のアドバイスを実践してみました。

当初は、自分に活字なんか絶対無理!漫画と動画最高!と逃げ回っていた現代っ子のたびぞーでしたが、今は「やっぱり他人の言うことは聞いてみるもんだ」という気持ちで一杯です。

家には書斎スペースをこしらえて、せっせと興味のある本を読んでは日々色々なことを考えられるようになりました。あー幸せ。

 

この例のように、「当たり前」の外は今の自分では気づいていない価値ある物事で溢れています。そして今あなたに何かを「押しつけてきた」相手は、その価値を知っている人なんです。

でも、それが何であれ、きっと最初はやれどもやれども違和感を感じることでしょう。

だって自分はそんなもの眼中にも入っていなかったんだから。

ですが、その違和感こそが自分の世界をガシガシと押し広げている証拠です。

 

 

f:id:Tabizo:20180215225326p:plain

だから、たびぞーは他人の押しつけにはなるべく積極的にのっかるべきだと思うのです。それで一度やってみて、嫌いだと分かるだけでも、自分の「当たり前」の赤い領域は確実に広がります。↑

この赤い領域の広さこそが、その人の人生の厚みです。

冒頭で書いた、人間は似ているところもあれば、違うところもある、ということについても、どんどん自分の世界を広げていけば、それで殆どの人と気持ちを共有できる「デッカい」人間にだってなれるのです。

 

だから、他人の「当たり前」は、ぜひ一度積極的に取り入れてみましょう!ね!

 

チャーお!

「目的と手段を勘違いしてるよ」って言いたがりな勘違いさん

ども。

 

たびぞーです。僕は英語が得意です。そうすると周りから英語が喋れるといいね、海外旅行なんかで便利だよね、とよく言われたりもしますが、これは英語を道具と考えている人の意見です。

言葉はコミュニケーションや情報の収集に使って初めて価値がある、という考え方ですね。僕はこの考え方とは異なる立場から英語を捉えています。英語はツールではなく、目的であるというのが僕の意見です。

 

大学受験の時に「ド」がつくほど英語にハマってしまった僕は、大学入学後も一人勉強を継続していました。

それはそれは熱中してしまった僕は、本来自分がとるべき単位を放置してでも、英語に関わる授業に潜りまくりました。英会話の講義は総なめにしましたし、プレゼンスキルや全編英語で学べる講義、果ては「音声学」なる講義まで見つけ出して意気揚々と学んでいました。

硬口蓋音がどうだとか、軟口蓋はああだとかいう、本来学ぶべき英文科の学生も苦笑いしてしまうような授業も、僕にとっては英語を正しく理解する上で重要だと思われました。

最終的に洋書も抵抗なく買うようになりましたし、英語であれば映画も字幕なしで楽しめるようになりました。

もちろん、ここではそんな自分の勉強法や英語力を自慢したい訳ではなく(今やGoogle翻訳もあるし)、僕にとって学生時代に英語に熱中した時間がいかに意味のある豊かなものだったか、ということを書いておきたいのです。

まさに、英語(言語)と文化の多様性を学ぶための学生生活だった、と言って差し支えないと思います。

 

■■

 

そんな風に自分なりに学生ライフをフルエンジョイした後は、ついに就職活動の波がやってきました。

真面目だった僕は真面目に大手企業の説明会やOBOG訪問もしたわけですが、

そこである大手企業のOBから衝撃の一言を言われたのです。

 

「英語はツールだよね。それで、その英語を使って何がしたかったの?」

 

その言葉に、当時の僕は完全に言葉に詰まりました。

「いやいや、、、、。

英語を勉強することがツールダァ?

ツール=手段。

やりたいこと=目的は別にあるだろう?って何でドヤ顔?てか、おい周りの人たちもウンウン納得してるじゃないか。まあ、貴殿にとっては勤め先が大企業で一応海外取引もそこそこあるし社内試験にTOEICもあるから仕方ないやるか、的な姿勢でしぶしぶ身につけた英語のスキルかもしれませんが、そもそも貴殿は英語を自然に喋るためには如何に口を変形させて、さらに日本語を喋る時とは異なる唇の振動を引き起こす必要があるのかご存知なんですか?Wが昔はUUでダブルUだったけど石版にUを2個も掘ると曲線部分が厄介だから直線に掘ってダブルVになっちゃったみたいな嘘か本当かみたいな逸話はご存知なんでしょうか?あと、世の中の言語に「お茶」っている言葉は大別すると「Tea(ティー)」と「Cha(チャ)」しかなくて、英語はtea、スペイン語はte、韓国語もte、日本語は茶、中国語はcha、スワヒリ語chaiっていう風に現在の言葉でも言語がどんな流れで地球上に広がっていったかというダイナミズムを感じられる事実を知っているんですかああああああああ????」

とマジで憤慨していました。(脳内で)

と同時にああこの人はきっと勉強する楽しさをあんまり感じたことないのかなあ?とちょっとその人が所属する会社のことが嫌いになったのでした。

 

■■

 

ひとたび冷静になると、あの人は「グローバル企業」(あえて「」をつける)に勤めているから、何か壮大な目的を達成するために、海外で多くの人を動かしたようなプロジェクトリーダーの経験とかを聞きたかったのかなぁと気がつく訳です。

ですが、やっぱりこれも「英語はコミュニケーションを取るための手段」っていう紋切り型の回答で思考停止しているとしか言いようがありません。

 

じゃあ聞くけど、ヒマラヤ登山をしている方って何が目的なんですか、って話です。

企業からのスポンサーを集めてお金を稼ぐのが目的でしょうか。世界に中継されて有名になるための宣伝がしたいのでしょうか。

そんなわけないだろう。そこに山があるから、だろう。

僕にとってみれば、そこに理解できない言葉があれば、学びたくなる。

それが目的になることも理解しようとしないなんて、なんてつまらない大人なのでしょうか。最近までリベラルアーツが軽視されてきた論調もこれと同根のように思いますが、直近ではAIの発展などにより「人間性」や「倫理」の重要性が見直されるなど、潮目は少しずつ変わっているようにも見えます。

 

ちなみに僕は、一人で勉強するのが好きでしたからあまりにも熱を込めて(楽しそうに)毎日図書館に通ったので、手前味噌ですが周りの友人も皆英語への関心は高かったですし、よく皆で勉強することになりました。

人を巻き込む力だってそこに情熱があればこそ、結果的にクリアできちゃうんですよね。

なので、そんな簡単に目的と手段を決めつけちゃあいけないよ、ってのが今日の言いたいことでした。

 

チャーお!

自由を謳歌する「ハンターワーカー」というコンセプト

ども。

 

皆さんは、出かける時にいつも何を持っていきます?

今やスマホで何でもできるのでカバンもいらない、という人もちらほらいるのでは無いでしょうか。

ミニマリストのライフスタイルも一般に知られてくる昨今では、物持ちさんがダサい、シェアこそ時代のトレンド、という風に言う人もちらほら見かけます。

そんな人たちの究極形態は「狩猟民(ハンター)」ということ生き方なんじゃ?というのが今日の論点です。ハンターは遊動します。どこにいても暮らしていけるからです。ノマド遊牧民)とは違います。その場その場で必要な分だけ得ていくシンプルな生き方です。

 まだ定住してるの?というキャッチフレーズと合わせて、「ノマドワーカー」ならぬ「ハンターワーカー」が生まれる予感がしています。

そもそも定住っていうライフスタイルは、巷でダサいと噂の「物持ちさん」に最適化された生活様式だからです。

 

■■

 

人の定住の歴史は当たり前ですが古くて、縄文時代みたいな学校で習うかなり序盤の時代にはイメージの通りの掘っ立てごやに住んでいました。ただ、それ以前には狩猟採集を生業として、採っては動き、採っては動き、を繰り返していた狩猟採集民族が世界中を動き回っていたこともご存知でしょう。

こういう風に書くと、昔の人はまるで狩猟採集を行うためだけに、遊動生活をしていたよう思えてきますが、ここは盲点で、そもそも人類はそういう生活をすることから沢山のメリットを受けていました。https://t.co/QHagq4RI2f

例えば、これからの時代により有効だと思われるような

社会的側面

 a キャンプ成員間の不和の解消

 b 他の集団との緊張から逃れるため

 

このようなコミュニティーの柔軟性を保つ機能も移動によって確保できます。逃げ隠れOKなので、自分を偽らないと溶け込めないようなコミュニティーからはガンガン距離を置けます。逆に、集まりたい人たちがすぐに集まれば何か面白い企画が出るかもしれません。それも自由に移動できるメリットですね。

 

ですから、むしろ定住の生活の選択の方が、止むに止まれぬ事情があってのことでした。

これが「物持ちさん」の起源である食料の「貯蔵」です。

大量の食料を貯蔵して叶えたかったのは安定的な供給を確保すること、そしてそれと引き換えに、人は遊動生活のメリットを諦めたのです。同時に、食料の貯蔵には様々な道具も必要なので生活の家財は必然的に増えました。これが今では当たり前の生活に繋がっています。

 先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」 https://t.co/QHagq4RI2f

 

■■

 

ここまで書くと発生の背景も含めてハッキリとしますが、人は同じ場所に留まることに慣れているようでいて、やはり違う場所に移動する欲求を持っている言えるでしょう。

旅行は明らかにそうですし、オフィスで疲れたら一人でコーヒーを飲みながら一息つきたいと言う気持ちもつかの間の脱走欲求です。

本当にオフィスから逃亡して帰ってこなければそのコミュニティに支えてもらえないのが常識でしたが、「ノマド」という働き方の浸透によって少しずつカフェや自宅への「避難」が許されるようになってきました。

 

そしてこの先はどうでしょうか。少なくとも、ミニマリストノマドワーカーの流れは止まらないでしょうし、何らかの発展が待っているというのが僕の予想です。

何故なら長い定住の歴史の中でようやく、定住の起源たる食料や家財が、スマホを介して買ったり、シェアしたりできる時代になったからです。

また生業としても、クラウドソーシングサイトを介せば今いる場所に関係なく仕事のオファーに応えられる環境が整っていますから、もはや人は一箇所に留まる必要は無くなっています。

ともすれば、インターネットは沢山の「獲物」(仕事)がうごめいている草原のようなものだと考えられるのです。どこにいてもその草原に出かけて行って獲物を仕留めてくればその日の暮らしに困ることはありません。

そんな自分の得意な「武器」できっちりと生活に足りるだけを持ち帰るハンターの性格は、ミニマリストから派生するのかもしれません。あとの時間は、好きな場所で自由に過ごすことができます。

人がそんな心の自由と豊かさを求めて、定住から元の暮らしに"戻って"も何ら不思議はないと思うのです。

『大丈夫やで2』という本がよく売れているらしい

ども。

 

先日も書きましたが僕は本屋が大好きなので、ふらふらと歩いていたところ

『大丈夫やで2』という本が目立つところに並べられていたました。

ベテラン助産師さんの心温まるアドバイス本で既に10万部に到達したそうです。さぞ沢山の女性の不安に寄り添った良書なんだろうと思うのですが、少し立ち止まって調べてみると年間の国内出生者数は約100万人程度ですから、単純計算すると出産に関わる10人に1人の割合いで購入していることにあります。

ですから、恐らくご懐妊された方とそのご家族以外にも1万人ぐらいは購入しているでは?と推測しています。ターゲットした顧客のみが購入する商品というのは考えづらいですから。

そもそも僕がこんな数字を調べたのも、表紙の助産師さんの笑顔が何とも素敵で、安心感が溢れていて、「これは誰でも手に取ってしまう人がいそうだなぁ〜(く〜、ニクい表紙だ!)」と思ったからです。でもそれだけではなく、どうしてこんなに人気なんでしょうか?

f:id:Tabizo:20180213003117p:plain 

現代人は不安の中を生きている、としばしば言われていますが楽観的な僕はそういったことについて深く考えたことがありませんでした。

ただ、これだけ「安心本」が売れていることを知るとムクムクと興味が湧いてくるものです。現代人の不安って一体なんなんだ?

 

■■

 

まず、日本の精神病の患者数は増えて流のは事実です。但し、この数字は受診者ベースの数字なので、これだけでは必ずしも病気にかかった人の数が増加した証拠とは言い切れません。これまで障害と認識されずにずっと存在していた発達障害と同様に「ようやく発見されただけ」の可能性もあるためです。又、あえて示しませんが高齢者の患者数が増加していることからも、平均寿命の伸びが患者数増加の一因と言えるかもしれません。

f:id:Tabizo:20180212230323p:plain

更に、先進国に患者数が偏っている点からも、病院で病気と「認定」されることが前提の数字だけでは納得することはできませんから、ますます分かりません。

精神の不安定は「現代病」とも呼ばれているのですから、やはりもう少し考えておくべきでしょう。

 

■■

 

別の切り口からも、これまでの変化を考えてみます。

有益な情報を発信し続けているTEDトークにも登壇した社会学者であり、哲学者でもあるRenata Salecl氏が「人生の選択肢の増加」と不安増大の関係性を指摘しています。(Renata Salecl: Our unhealthy obsession with choice | TED Talk

確かに、無我夢中で働きさえすれば(それももちろん大変ですが。)経済全体の上昇に合わせて成果が返ってくるという良い循環が回っていた時代には、いわゆる有名大学に入り、大きな会社に入り、マイホームと自家用車を手に入れて家族と幸せな老後を過ごす、というゴールデンルートがありました。当時は(今も?)、いかにその理想に近づくかが目下の関心事でしたから他にわき目を振っている暇も、メリットもありません。

しかし、今は足元から押し上げてくるような上昇気流は吹いていない為、皆が同じ夢を見ることはできなくなりました。限られた経済のリターンからでは全員が同じ夢を描くことができなくなったためです。このように強力な理想像が失われたことで、多くの人はより自由に物事を決められる(決めなければいけない)ようになっています。

 

こういった話はよく知られていますが、実際の変化を経験をしたことのない僕らのような世代にはいまいち手触り感のない情報かもしれません、そんな人は一度アフリカを訪れると良いでしょう。突拍子も無いように聞こえますが、先に紹介したTEDトークの論理を非常に納得感を持って理解することができると思います。

良い例として、僕がアフリカの国を旅する中で出会った、圧倒的な熱量を放つ商売人たちは、まさに生きるか死ぬかの「モーレツサラリーマン」でした。

ひとたび日本人が通りがかったと分かれば大声で僕のことを呼びます。「ジャパニ〜!ジャパニ〜!」腕を掴み、商品をつかませ、強引極まりない商売です。うるさいし、怖いしで最悪な気分でしたが、そんな中でも忘れられないのは彼らの熱のこもった目です。彼らの目には、オフィスであくびをしながらパソコンで作業をしているような「惰性」は一切なく、まさに生きるか死ぬかの眼力で販売攻勢を仕掛けてくるのです。他に多くの術もないでしょうから、それはもう全力である人はオレンジジュース、またある人はスカーフを売ってくるのです。

ああ、日本の会社で72時間働き続けた戦士たちもあんな感じだったのか、と想像してしまいます。(あんなに乱暴ではないと願いたいが。)

というか、それだけ働いて少しでもそのことに悩んでたら、ほんとソッコーで絶望すると思います。

 

■■

 

やや話が逸れましたが、現代の不安が「選択肢」によって生まれているとしたら、それだけ社会に「余裕」が生まれた証拠なのかもしれません。このことを知るだけでも少し気持ちが楽になるかもしれません。現代人が昔よりも弱いのではありません。考える余裕を手に入れたから少し、考えすぎちゃっているのです。

『あんぽん』というソフトバンクグループの長である孫正義氏の伝記にそれと近いニュアンスのことで、「ヤンキーなんかやって遊んでいられる人はそもそも生活に余裕があるのだ」と書かれていました。

極端な話ですが、今日の食事に困る生活を強いられれば、何をするか、できるのか、できないのか、なんて漠然とした不安は消えていくのかもしれません。

答えは1つで、ご飯探しにいこ、絶対に、となりますから。

 

 

まさに、周囲が一見豊かになったとしても貪欲に自分のゴールに向かって突き進んでいく、ホリエモンの言葉も共通の本質をついているようです。

 

ただ、わき目も振らずに突っ走る!!という人は一握りなのでしょうから、大半の人にとってはキャリアも恋も友人も、と悩みや不安は尽きません。

優しく笑顔で、不安を和らげてくれる存在が人気を集めるのも頷けます。

ただ、まずは自分たちが置かれた外的な状況を理解しつつ、あとはやっぱり好きなことに熱中していく気持ちも忘れずにいたいところです。

大丈夫やで!も大事ですが、皆どこかで前に進む方に転じていきたいですね。

 

 

脳みそ拡張装置は、僕が考え事をする上で欠かせない

ども。

 

どんどん面白い物事が登場してくるのをtwitterなどでもヒシヒシと感じていて、自分の生き方も変幻自在に変えていけたら楽しいだろうな、と考えています。そんなこともあり、これから人生を通してどういうことをやっていこうかと改めて考えていました。

そこで、どうも自分は同じ事柄を堂々巡りしているだけで全く考えられていないのでは?ということに気づいたのです。

 

今日の本題は本の紹介ではないのですが1つだけ、考えることを構造化するための目から鱗の喩え話が紹介されていました本に出会うことができました。

『「言葉にできる」は武器になる。』 – 2016/8/26梅田 悟司   (著)

それが、

頭の中の情報を広げられる容量=「机の広さ」

というイメージです。

限られた机の面積に、様々な情報が書かれた資料をこれでもか!と集めてきてしまうと、新しい考えや自分なりの仮説を生み出すような余裕はなくなってしまうというのです。これには、僕も「参った!」という感じで心当たりがあり、周到にデータや事例などを集めた結果、それらを頭で覚えておくだけでも精一杯になってしまう時がこの状態なんだと理解しました。

 

■■

 

ようやく本題なのですが、このように自分の脳みそは限られたスペースでしか同時に物事を扱えない、という気づきから、僕が考え事をする上でもっとも適している場所は本屋ではないか?という仮説に至りました。

これまでも感覚的に本屋は好きでしたし、整理された情報が足元から頭上まで陳列されている空間だからか、新しい気づきが得られて楽しいなぁと感じていました。

それがまさか、本屋が自分の「脳みその拡張装置」として機能しているではないか!というのは面白い気づきでした。本屋にいけば精緻に分類された情報が一覧となって目の前に広がっています。それぞれの本(情報)の違いやつながりを考えることも容易ですし、時に全く別のことを考え込んでからすぐに元の情報を参照することも可能です。

さながら、自分の頭の中のイメージやデータをいくつものディスプレイに写し出している為替トレーダーのような気分です。

f:id:Tabizo:20180212001345p:plain

具体的に情報が自分の頭の外に吐き出されるとどうなるのか、と考えるとこんな風になります。

例えば、今日の夕食の献立を考えようとします。

目の前の本棚に沢山のメニュー本や、食材を集めた本棚が広がっています。

それらを目の前にしながら、僕は「うーん、この魚と肉なら、今日はこっちの肉の方が食べたい。。そう、こんな大ぶりな肉!あ、もう6時だ。簡単に済ませたいな、、。あ、これは手間が少なそうだから、今日はこれが良いな!」

という具合に考えます。

目の前にある具体的な情報が広がったままになっているので、「肉か魚か」→「肉ならばどんな形状の肉か」→「手間のかからない肉料理はあるか」という論理を容易に展開することができます。

逆に、頭の中でイメージするだけでは、こんな肉料理もある、あんな魚料理もあるな、と先ず情報を広げることが必要であり、論理的に何を食べたいのかを容易に考えることができません。

 

■■

 

この意味において、僕はまだ書店はネット通販最大手のAmazonにも対抗することができると考えています。

Amazonは「何かを買う」という機能においてはみぎにでるものがいません。さらに顧客の購買データから適切なオススメをしてくる点からも、「自分が検索しない、予期せぬ本との出会い」という従来の書店の強みも少しずつですがキャッチアップしてきています。

しかし、Amazon最大の制限は「パソコン画面の大きさ」にあると思います。現状、多くのユーザーがパソコンで検索した情報を表示しても、頭の外に拡張できている情報量は画面1枚分に制限されてしまいます。すると必然的に、自分の頭の中で論理を展開できる余白を大きく広げることはできません。そこで求められる手続きは、今目の前に表示されている商品を買うか、買わないか。もっと安い商品はあるのか、ないのか。という二者択一の思考だけです。むしろ、深く考えなくてもAmazon側の投げかけてくる情報に反応していくだけで、ある程度希望の物が買えるという非常に直感的でスピードを追求したサービスである、ということです。(彼らのデータは僕の欲しいものを「知っている」からです。)

当然、誰にとっても現状Amazonは「最も便利」な購入ツールではある一方で、僕のように情報と情報の間につながりを見つけて一人喜ぶような人間からすると少し物足りなく感じてしまうのはこの為でしょう。

極端な話ですが、完全没入型のVR(バーチャルリアリティー)空間に限りない情報が陳列されているスペースが完成した場合、僕は迷わずそちらを選択するでしょう。何故なら一度買ってしまえば、紙でもデータでも情報の価値には大差ないと思うからです。

ですが、本を購入する体験にまで思いを巡らせてみると、様々な情報(不要な情報も含めて)に触れつつ、自分であれやこれやと頭を使いながら買い物ができる、という点で僕にとって本屋は非常に価値がある場所なのです。

顔も知らない不特定多数のお客さんを裏切らないことの大切さ。(商品の値決めの話)

ども。

 

先日近所のスーパーマーケットに行った時の話ですが冷凍食品が突如半額になっていました。

道理で今日は買い物に来ている人たちが多いわけだと独り合点がいったわけですがそこでフと疑問に感じたのは「昨日このこと(安売り)を知らないで冷凍食品を大量買いした人が今のこの状況を知ったらどう思うのかなぁ」ということです。

 

予想できるお客さんの反応は大まかに3パターンで

1即日買う必要があったものだから、ちょっと高くても仕方ない、という場合

2知っていたら今日買いに来たよ、という場合

3そもそも価格なんか気にしないからどうも思わない場合

ここで取り上げたいのは昨日の購入に不満を感じている2のお客さんです。

1と3は商品の価値と価格のバランスは、価値>価格で購買の理由自体に歪みはありません。1は、出張がギリギリに決まった時などにどうしても購入しなければならない「割高」な飛行機代などが良い例です。いわゆる「イールド調整」という価格変動ですね。

 

問題は、昨日時点では価値>価格と考えて納得して購入していった商品の価格が更に下がったために価値と価格の差分=顧客利益が目減りしていることに気がついてしまった状況です。

こういうときにお客さんはその責任を自分と相手の両方に転嫁することができる筈なのです。

まず、自分に落ち度を見出すお客さんは、チラシやネットの情報などの安売り情報に網を張っておらず今日の広告に気がつかなったことを反省して、次からは積極的に情報を取りに行くことでしょう。

逆に、お店側に責任を感じるお客さんはもっとしっかりと告知しておくべきだ、むしろこんなに安くなるなら昨日の値付けは高すぎるということだ、ぼったくりだ。と感じてお店に不信感を持つお客さんもいるかもしれません。

 

■■

 

お店側の言い分を考えると、価格を引き下げるパターンとしては

プロモーション活動

売上最大化の活動

の主に2つの目的があると思います。

上のプロモーション活動は、驚きの割引価格によって新規顧客にお店の利用してもらうきっかけを作る、もしくは複数の選択肢を持っているお客さんを自分のお店の存在感を改めて知らせて今後の利用を促す中長期的な目的です。

下の売上最大化の活動は、いわゆる在庫の処分や短期の売上目標に対してのカンフル剤のような作用を期待しています。

 

ここでポイントは、どちらの目的の値引きであるにせよタイムセールや在庫処分セールなどと銘打ち、一見しただけでは先に触れたようなお店に不信感を持たせてしまう可能性を否定できない点です。

 

そのような状況で、値引きに対してお客さんからポジティブな反応を引き出せるかどうかの分かれ目は、「お店とお客さんのコミュニケーション」に尽きます。

言い換えれば、その値付けの納得できる理由をお客さんに伝えられているか、ということが重要です。

 

■■

 

具体例を挙げると、これを上手に行なっているのはイオングループの行なっている「毎月5のつく日はお客さまわくわくデー」というセールです。

読んで字のごとく、定期的に、お客さんをわくわく喜ばせるために、行なっているセールです。

(もちろん売上も爆上げしたいけど)一切、ビジネスライクな感じを出さずに、お客さんに値引きの意図を表明しています。しかも、5という記憶しやすい日付設定で、一度セールを知らずに逃してしまった場合もとても「リベンジしやすい」点も好感が持てます。これを「7と、13と、16と29のつく日はポイント6倍〜♫」としてはお客さんには浸透せず結果的にお客さんに値付けの妥当性を伝えることはできません。

狙っているかは知りませんが、成功企業にはまだまだ良い例が眠っています。

 

一方で、悪い例としては僕の大好きなアメ横の一部のお店があります。

ここでは万年閉店セールを続けている宝飾品店や、袋に大量のピーナッツを放り込みながら「これでも千円、これを入れても千円」と安売りを強調してくるお店があります。このようなお店を目にすると、確かに安いのかもしれないけど、その商品の本当の価値はいくらなの?ということがさっぱり分からなくなるため、そのお店の価格全体を不信感の目で見てしまいます。

 

逆に、急成長を遂げた高級アウトドアブランドのスノーピークは殆ど値引きをしないのが印象的です。もちろん大人気ブランドですから大きな値引きをして無理をして売上を促進する必要もないのだと思いますが、「あくまで商品には値段に見合う価値がある」ということを様々なメディアや書籍などを通してしっかりと市場に伝えられているため、類似品の2倍近くする価格でもぼったくられた感じもしません。むしろこのブランドは、安売りをするほど不信感を与えてしまう可能性すらあると思われます。

 

まとめると、中長期的な顧客獲得のためであっても、短期的な売上最大化のカンフル剤的な値引であっても「お客さんとのコミュニケーション」を実践できている限りにおいては市場からの信用を毀損せずに実行可能である、ということです。

売上が目標に達しなさそうな時に突如ゲリラセールで全商品を半額にした場合でも、このお店は面白いセールを不定期でやりお客さんを楽しませてくれる、というような認識を持ってもらえるように強いメッセージを発していけば結果オーライになります。

そのためにはチラシや値札に書くだけでは不十分で、その場にいる従業員が口にする言葉や、衣装、BGMなども全て含めてお店総出でお客さんとコミュニケーションしていくことが大切です。

 

ほいでは!

僕の周りのアドレナリンを欲する人たちの特徴

■■

普段の口数は少なめ

 

一見絡みづらそうなオーラを出している

 

色々なことを考えていて秘密裏に意見を育てている

 

読書が好き

 

遊びの誘いにはものすごく積極的にのってくる

 

何でもいい、と言いつつ態度で好みをしっかりと主張してくる

 

最後は普通に口に出して言っちゃう

 

不器用だけど、寂しがり

 

人生の暗い面について何らかディープな体験談を持っている

 

けど、割と仲良くなるとそういう話も教えてくれる

 

海外に飛び出そうとする、もしくは飛び出していた

 

素敵な写真を撮ることができる

 

多くの人が集まるところにはあまり出向きたくない

 

でもやっぱり一人は寂しい

 

手持ちカバンよりもバックパックが好きである

 

欲しいものにはとりあえずお金を使ってしまう

 

バンジージャンプをする

 

スカイダイビングをする

 

とにかく落ちることが好き

 

崖を登ったり

 

沢を降ったりもする

 

大盛りを好む

 

意外と辛いものは苦手だったりする

 

お酒も特に好きではない

 

せっかくだし、ということで結局何でもやっちゃう

 

スカイツリーにはまず間違いなく登ったことがある

 

第一展望台まで追加料金を支払うことを厭わない

 

どこかの国の高いタワーのへりに立ってポーズを決めることもする

 

猟銃免許を取得したがる、取得している人もいる、そうすると更に取りたがる

 

笑いの閾値が高い

 

ただ笑う時はもの凄く深くツボに入ったように笑う

 

多分、理想の生活は芸人のイモト。性格は頑なに変えないと思うけど。

 

■■

 

こういう人と仲良くなれると、自分の人生はちょっと豊かになると思う。

たまに遊ぶと色んな引き出しを出してきてくれる。

 

個人経営のお洒落カフェでなかなかコーヒーが出てこないことについて。

ども。

 

突然ですが今日は僕の趣味の個人カフェ巡りについてのゆるーい論考です。f:id:Tabizo:20180209005003p:plain

不器用なのに何故かリピートしちゃう小規模経営のカフェについて書きたいと思います。

 

そもそも僕は休日になると個人の方が経営されている小さめのカフェに出かけてコーヒーを飲むことがよくあります。(主に、ブラックコーヒーを注文する)

 

なぜ好きかというと、こういうお店ってDIYをされていたり、店主の肩のこだわりの家具や本などが置かれていたりとチェーン店のカフェにはないなんとも言えない自由な大人の遊びココロが感じられて好きなんですよね。

あと収益を最大化したい!という分かりやすいオーラ(マーケティング)を感じさせていない素朴なところが東京の街角で簡単に見つけられる非日常だったりもします。

 

ただ趣味化している個人カフェ巡りでしばしば出くわすのが

「コーヒー1杯が出てくるのが、おせえ!!」という事態です。

ただ正確には

「あれ?そいえば俺、結構座って待ってるな。。あ、きた、あ隣の席か。次か、次俺か。ま、人少ないもんね。」ぐらいの感じなんですが。

別に、今日は文句が言いたい!っていうことじゃないですよ。

むしろ自分の中でハッキリさせたいのです。

 

「どうしてチェーンのカフェより提供がスムーズじゃないことは分かっているのに、また行こうと思えるのか」を。

 

だって、これは考えれば考えるほど不思議なことなのです。

 

■■

 

通常、お金を商品やサービスに対して支払う時には、その支払う金額と同等かそれ以上の「価値」があると判断された後にだけ売買が成立します。

 

つまり、コーヒー1杯の価値はもちろんのこと、店内のデザインや清潔さ、接客応対など様々な要素が積み上がっている価値と、自分のお金を交換するという行為を日夜繰り返しているわけです。

 

そのように考えると、例えばスターバックスコーヒーの価値は安定感があります。

コーヒーの味は好みによりますが、まず僕の中ではwifiの質や椅子の硬さ(尻がすぐに痛くなる)、本を読んでいても気まずくならない店舗のキャパシティーなどが利用を後押ししてきます。もちろんスタッフも笑顔で気持ちが良いですし、大きく待たされることはありません。僕はホテル運営の経験もあるので分かりますが、スターバックスの店舗オペレーションはスタッフ同士がとてもよく連携していて効率的に見えその点でも好感が持てます。

以前だと「ショートキャラメルフラペチーノ〜」などオーダーを受けたスタッフが他のスタッフに商品名の声がけを行い、スタッフ皆で復唱するというオペレーションがあったと思いますが私が過去1年ほどで行った少なくとも10数店舗では廃止しているようです。(おそらく全店舗廃止している)

これも顧客満足につながらない"無駄"は大胆に省いて店舗運営を効率化することは、最終的にはお客に提供する価値を高めることになりますから、僕から見える部分では非常に良い企業文化が根付いているんだなぁと言える筈です。やはり僕は、繁忙時に利用する際はもちろん別ですが、店舗側の努力なしに不当に待たされたりするのは価値が低いと感じリピートしない"面倒な客"なのです。

 

話を戻して個人経営のカフェですが、概ねご夫婦か、もしくは仲間やアルバイトのスタッフを入れても2〜5名程度で運営されているところが多いように見受けられます。

その分もちろん席数は少なく設定されていますが、それでも入店が重なればメニューをお客に渡すタイミングも遅れてしまいますし、その後のオーダーテイクや料理提供までどんどん後ろにずれ込んでしまいます。

ただ自分でも不思議なのは、このときに効率性魔人である僕がそんなに嫌な気分になることなく大人しく待ち、美味しいコーヒーを楽しみ、そしてまたリピートしたりカフェ巡りに出かけたりしているということです。

インターネットである人の投稿を目にするまで、長らくこれは謎でした。

 

■■

 

それは起業家であり投資家の堀江貴文さんが発信されていた

「飲食店の本質はコミュニケーション」という趣旨の発言です。(細かくは覚えていません。)

その時はなんとなくそんなもんかなぁと思っていただけですが、色々な人たちの本を読んだり自分で実際に体験したりしていく中でその言葉の意味が分かってきました。

 

端的な言葉になっているかは分かりませんが、

僕は、小さなカフェで頼んだコーヒーを待たされているときに

お店の店主の方と店員さんを「応援」していたのです。

 

僕にメニューを渡せずに他のことで手間取っていましたし、

別のお客への飲み物も少し待たせているようなときに

またお店の入り口に新しくお客さんが入ってきて待っています。

そこに駆け寄り申し訳なさそうな笑顔で声をかけている自然体の店員の方たちの姿。

なんならメニューはここに置いてあるものを見ておきますね、と手間をかけさせないように声をかけたくなったタイミングで謝りながらメニューを渡してくれました。

 

これは先ほどのスターバックスコーヒーの例とは全く異なる「価値」を僕に与えてくれているということがよく分かります。

それが特定の誰かを「応援する」というコミュニケーションの価値なのだと思います。

もちろんこれは寄付をあげるような慈悲深い活動ではありません。どちらかというと推しメンの地下アイドルを応援するような気持ちでしょうか。

冒頭で触れましたが、僕は普段はビジネスの収益最大化のために市場とにらめっこをしながら日々頭をひねって(かかえて)いますから、こういったお互いの表情を確認し合えるような距離のカフェは貴重な場所なのだと思います。

ですから逆に、スターバックスコーヒーのように圧倒的に効率化された提供オペレーションで、サクッと笑顔ではいどうぞ!では物足りない自分もいたのだということに気づかされました。

 

そんなところにも自分は価値を感じるんだな、と。

待たされたいニーズなんてどんだけ"面倒な客"なんだ、と。

 

「ビール離れ」を懸念するのって色々変だと思う訳

若者のビール離れが進んでいることが騒がれていますが、

「ビターで辛口、料理に合う缶チューハイ!」、「缶チューハイで乾杯!」という対抗策には「え、それってどうなの?」と疑問を感じています。

 

商売の良いところは、お客さんを満足させるところにあるのだと思う訳ですが。。

 今日はこれをテーマにちょっとおかしな需給の関係について考えてみたいと思います。

 

まずは簡単に飲料業界の「今」をおさらいしておきましょう。

▼ポイント

①飲み会ではまだまだビールが主流

②自宅では発泡酒や酎ハイが伸びている

③ただし、そもそもお酒の需要自体が伸び悩んでいる

 

 

f:id:Tabizo:20180207000438p:plain

乾杯でまず飲むお酒は?| 毎週アンケート | ハピ研|アサヒグループホールディングス

 

 

上の表からも分かる通り、

え!?皆意外とビール飲んでるじゃん!わざわざチューハイとか掘り起こす必要ある?となる訳ですが、案の定人の目を気にする必要のない自宅では、ホントは飲みたい発泡酒やチューハイが主流になってきています。

▼下図

 

f:id:Tabizo:20180207000917p:plain

乾杯でまず飲むお酒は?| 毎週アンケート | ハピ研|アサヒグループホールディングス

 

ならば!とお家で美味しく飲めるチューハイを作ったり発泡酒のクオリティを高めたりと試行錯誤されているようですが、そこも上手くいっていないご様子。酒類生産量は全体的に下降トレンドです。

▼下図 特に、ビールの低下が顕著。

f:id:Tabizo:20180207230348p:plain

国税庁課税部酒税課 酒類製成数量の推移

そして遂に、やってきた訳です。「乾杯でも飲める大人のチューハイ!」を作る時が。

という一連の流れの中で、満を辞してビターなチューハイが登場するのか?と微妙な気持ちになるのです。

 

 

だって、ちょっと立ち止まって考えてみると絶対に変なんです。

過去20年間でいなくなってしまった1,500,000kg分のお酒を消費していた人たちは、今どこで何をして(飲んで)いるのでしょうか。

食事の時に飲み物を飲む人が減ってしまったという話はあまり聞きませんよね。

そう思って探してみると、すぐに見つかりました。こちらです。

f:id:Tabizo:20180207233306p:plain

            (一般社団法人 全国清涼飲料連合会)

ソフトドリンクを愛飲するトレンドです。

内訳は特に炭酸飲料やノンアルコールビールの伸びが顕著です。普通に生活していても感覚的に納得できるデータだと思います。

炭酸水を飲んでいる若い人、すごく多い気がしませんか?

世の中は「ビール離れ」と合わせて、もっと「お酒離れ」にもっと注目するべきです。

今でも飲み会では9割の人がビールで乾杯って、何かおかしい気がします。

皆、無理してない?

 

そして満を辞して登場。

f:id:Tabizo:20180207234028p:plain

 

「ビール派が多いので、皆に合わせて最初はビール」(女性40代)、「外飲みはメニューを見なくても決められるもの」(女性30代)「ビールがあまり飲めないので、いつも甘いカクテル系やチューハイ系。ビールで乾杯に憧れますが…」(女性30代)

乾杯でまず飲むお酒は?| 毎週アンケート | ハピ研|アサヒグループホールディングス 

 

 

これについても、そもそも無理にお酒を飲ませなくてよくない? と思ってしまいます。

もともとビールやお酒全般が不調になってきたのかを考えると、女性の社会進出や、経済の成熟で生まれた「草食」と呼ばれる男性など、確実にニーズの変化があるのは明らかです。

そういう人たちにとってみれば、ビールはエネルギッシュでカッコはいいかもしれないけど(僕はそうとも思わんが)、それよりも自分の好きなものをいつでも飲みたい!と言える柔軟な環境が一番望ましい筈です。

だって酒類メーカーの人たちが焦っているビール離れやお酒離れなど彼らにとっては全く関係ありませんから。

 

そんな新しい消費者に対して、「大人の味覚に応えたチューハイ」を投入する、というのは未だ過去の成功イメージに引っ張られ過ぎている感じがしてなりません。

ビールの需要が落ちているから、ビールより少し飲みやすいお酒にしよう、という判断からは、ビール大好き世代の「安全パイ」な考えが透けています。

 

「乾杯用にぴったりのお茶」など、多様化する客層に即してコンセプトを押さえていく方がより自然ですし、より多くの人の乾杯がもっと美味しくなる筈です。

 

(2018年2月19日追記)

こんな多様化するコンセプトは、シェアが稼げないから大手は参入できませんよね、っていう反論が思いつきましたが「それってイノベーションのジレンマの典型じゃん」で速攻片付きました。

この記事に興味があってまだ読んでない方がいたらオススメです。