「本質的に」ってなんぞや?

何故か分からないけど、子供の頃から時々発作のように、意味の分からない言葉をそのままにしておくと、何ともお腹のあたりがムズがゆいような、居ても立っても居られないような気持ちになることがあった。

別に意味が分からなくたって気にも止めない言葉だってもちろんあったし、世のあまねく言葉を調べ尽くしていた訳でも当然ない。

この発作が起こるときは決まって「何かカッコイイ」言葉を使っている誰かを見たあとに、ついついマネして使ってしまっている自分に気が付いたときなのだ!

恥ずかしい。意味もわからず格好つける不甲斐なさ。何とも自分を許せないような、居心地の悪い感覚に襲われる。

そこで今日の本題。「本質的に〜」という言葉だ。よくよく議論の場などで使われていると思うのだけれど、いざこれを目の前で言われてしまうと大変だ。自分の浅はかな考えを見抜かれた、気恥ずかしくも情けない気持ちにさせられる、そんな破壊力のある言葉だと思う。

また、いつもの発作が起こる。ムズムズする。

本質的に、ってついつい言ってしまいそうだけど、結局どういう意味なんだろう。「お前は本質的なことが分かっていない!!」と言われてしまう場面を想像してみても、何が分かると本質的なことを理解できているということになるのかサッパリわからない。だから、この言葉を安易に口にするのは危険すぎる。相手から逆質問カウンターを繰り出されたら、俺は確実に悶絶してしまうだろう。

何はともあれ、とりあえずググるが勝ちである。

本質的:「物事の根本的な性質にかかわるさま。それなしには考えられないほど大事なさま」本質的(ホンシツテキ)とは - コトバンク

アイスクリームの本質は、冷たくて美味しい、ということである。熱ければ、溶けてしまうから。それはアイスクリームではなく、牛乳か或いはジュースであるから。

本当にそういうことなのだろうか。

この本質を引っさげて、「最近冬にもアイスが売れてるんだけど、なんでかな?」というコンビニ店長の疑問を自分に課してみるとどうなるのか。

「店長、アイスクリームの本質は、冷たくて美味しい、ということにあるのです。冬に冷たいものを楽しむ場面を想像してみましょう!」

店長「!!昔と違って最近は暖房器具もしっかり流通しているから、冬でもアイスの売れ行きは今後落ち込まないと考えられるな!」と。こんな感じだろうか。

 

次にコンビニのおでんが人気であることの本質を考えてみる。それは、手の込んだ熱々の美味しい料理を即座に入手できることにある、気がしている。

会社帰りの寒い冬に、おでんを食べたくなったとする。夜8時、、今から作っていたら大根が柔らかくなる頃には10時を過ぎてしまう。諦めようか。。ここにコンビニのおでんである。うん!これは買いたい!ここで冷たいおにぎりでは味気ない。

ということは、コンビニのおでんは例えば具沢山の豚汁にも置き換えられる気がするのだがどうだろうか。具の多い豚汁は、食材を揃えるのも、切るのも、後片付けも何もかもが面倒だ。

あ、そういえばコンビニエンスストアーの本質は「便利」というところにありそうだ。

「本質」ということを追っていくとそのものの価値について考えていることに気が付いた。では、逆に価値がマイナスのもの、例えばトラブルの本質について考えてみたい。どういう結果になるのだろうか。

では具体的に、小学生のいじめについてはどうだろうか?「小学生のいじめ」を特徴づけているものは何か?何が欠けるとそれはもはや小学生のいじめと言えなくなるのだろうか。

少し考えてしまったけれど、もしかするとそれは「逃げづらい」という部分なのかもと思い至ったがどうだろう?小学生のいじめは逃げるのがとても大変な気がする。なぜなら小学生にとっての全世界は、その小さな小さな学校に限定されているわけでだから。中学生になると部活なんかで他の街の中学生とも交流があったりして、いざイジメられたら隣町の友達がいる学校に転校なんて選択肢だって本人の頭の中に浮上するかもしれない。

しかし自分を思い返してみても、小学校は、市街地から離れたそれはそれは辺鄙なところに建っていたし、子供達だけで遠くに出かけるわけもなかったから、あそこで仮にいじめられていたら、それはそれは辛かっただろうなと想像できる。それに対して今はインターネットを介した交流や、いじめケアなどが提供されていることは一定の効果があるだろうと思われる。世界を広げてあげるのにオンラインは有効だ。

こんな風に考えてみた小学生のいじめの本質が合っているかは一旦横に置いてまとめると、トラブルの本質をガチッと捉えてられると、その問題の一番悩ましい部分を理解することができる、ということが仮説として立ち上がった。

つまり、プラスの物事の本質は、そのものの価値、マイナスの物事の本質は、そのものの闇というわけだ。

具体的な物事を決めたら、この部分は他のものにも当てはまるな、とフィルターをかけていくと、そのもの固有の特徴が絞り出されていく。

だから、本質的というのは、無駄なものを取り除いた、濃度高く、香り高い、コーヒーのエスプレッソのような状態のことを指すのだろう。価値があるものは、飛び切り良く見えるだろうし、逆に負の物事の本質は非常におどろおどろしく感じられるだろう。

この要領で、自分が考えがそのような質のものになっているかを確認することで本質的に思考できているかはセルフチェックができそうな気がしている。そうだ、それがこの文章のそもそもの目的だった。コンビニのおでんは所詮おまけなのだ。

 

ただ逆に、抽象的なイメージをどんどん具体化していくのも面白いと気が付いた。ざっくりと「とっても便利なお店」を考えてみると色々あげられると思うのだけれど、これをどんどん具体化していくと、最近はコンビニ以外にもドラッグストアもとっても便利だよなあ。ちょっとしたお菓子から日用品までなんでも買える。ポイントもしっかりつく。夜中まで営業しているし。あとはもちろんアマゾンもすごく便利なお店だろう。あの秒速で買い物が完了する感覚は、一度経験すると病みつきになる。

そうこう考えてみると、最近はコンビニエンスストアの競合として、これらの業態が台頭してきている、ということも整理できるというわけだ。物事の本質はそのものの価値であることは確認済みだから、つまり近しい本質的な価値を持っているお互いは、お客さんにとっては選択肢として横並びになるだろう。

これで「お前は本質的なことが分かっていない!!」と怒鳴られても、もう底なしの恐怖感はない。正体さえ分かってしまえばあとは訓練を詰むだけだ。

今ならドヤ顔で「本質的には〜」とか言っている人たちを気持ちよくスルーすることもできるかもしれない。

物事の本質を理解するのはどうやら骨の折れる作業だけれど、慣れればパッパッパと答えに到達することだってできるはずだ。

どうやってトレーニングしたらいいか分からないけど、世の中の売れている本は大体そういうの本質をついているものばかりな気がするから、手始めにそこらへんから攻めてみようか。そして本当に意味のある言葉として「本質的には〜」という言葉を発してやるのだ。

エイエイオー!!